ハードディスク投げ選手権

趣味と仕事とごった煮状態 いつまで続くかは未定で不明

嫁に枕を買い与えられた

近所の大型ショッピングモールに行った。

歩いていたら嫁が見つけたのがオーダーメイド枕の店。店自体は以前から知っていたし関係ないと思っていたが嫁に手を引かれてあれよあれよと言う間に計測器に立たされていた。

嫁は以前から私の寝相の悪さとよく眠れていないのが気になっていたそうだ。嫁の母も義父の為に枕を買ったので何時か実行する計画であったのだと。

計測結果で後頭部と首と肩甲骨の落差が激しくだいぶ厚い枕が要ると言われた。今まで使っていたのは綿の薄い枕であったので冬は首に毛布一枚を束ねて巻くことで枕兼防寒にしていた。

作ってもらった枕は分厚く寝返りを打つために中央より左右はさらに分厚かった。寝返りを打っても枕から落ちない横幅はなんとも頼もしい。重さも程々にあり勝手に転がって行くことはないだろう。

使った実感としてはやはり今まで枕を軽視していた事実を認めるしか無い。

日中職場で眠くなることが無くなった。これが一番大きな変化だろう。眠る時間自体が長くなったわけではないが質が上がったことは明白だ。

価格が4万を超えただけに自分で買うことはなかっただろうし買ってもらった時点でも反応に困ったのだが、使った結果と今後のメンテナンスも考えると相応の値段であったと感じる。

実際に数日使わないと分からない物をオーダーメイドで買うのには抵抗があるが、睡眠について悩んでいるなら買うのは決して間違いではない。

田舎のコミュニティと交通

生まれ育った町が田舎だった。正確にはコミュニティは村規模で田舎というと更に田舎から罵られるくらい半端に田舎だった。

子供の頃から自転車移動が基本で田舎あるあるの車中心社会だった。

それでも自転車で30分走れば駅に行けて駅からそこそこ規模の街に行くことが出来るのだが、時間もかかるので大人はやはり車中心だ。

 

大人になって都会で住んでみると都会と田舎の違いで気づくことがある。映画館や大規模な文化施設が無いのは田舎だから仕方ないにしても、駄菓子屋が少子化で無くなったのも仕方ないにしても、個人の居酒屋・バー等がかなり無いということだった。

これは酒をコミュニティの1ツールとして利用できる人間からすると活用する場がないので由々しき問題である。馴染みと認識されれば自然と周囲の人間と知り合うことの出来る場がそもそも整備されていないのだ。

無い理由は単純に前述した車社会のせいである。昔であれば少し飲んだところで平然と運転していたらしいが、昨今はそうもいかず帰り足の確保ができない人から離れ、店自体もたちいかなくなるわけだ。

駅前はどうかというと車がメインの交通手段となると簡単に発展しない。実際私の最寄り駅前には書店すらなかった。

田舎は閉鎖的とはこういうことなんかなぁ。

キャバと風俗の敷居の高さ云々

anond.hatelabo.jp

「かくいう私も童貞でね」(合田一人攻殻機動隊2ndGiG)

と言えれば面白いけど運良く伴侶を得ることが出来たので説教も汲み取るような助言もこのエントリには出来ません。

ざっとコメント周辺を読むと風俗に行けと言うのはあれども何故かキャバクラへ行けと言う人が全くいない。
元の内容が童貞であることを儚んでいるから当然なのだろうが、タイトルに結婚とあるからには性交渉以外の恋愛その他諸々の経験全てを含めた喪失感があるのだと思う。
であれば疑似恋愛的な意味合いでキャバクラ等を勧める人がいても良さそうだがそうでもなかった。何故だ。

男にとって女性と接する目的の到達点が性交渉であると考えるからかもしれない。その到達点に行く前のあらゆるプロセスをすっ飛ばしては本来の「恋愛その他諸々の経験」が得られないのだが、これは今だからという話ではなく戦前には「筆下ろし」として儀式的に行われてきた事なのでよくよく考えると「まずソープ行け」というのも間違いではない。

かく言う私もキャバクラに入ったことがない。ガールズバーやラウンジ(と言う名のガールズバー)は行ったが営業形態が違うか。

折しも大阪ではボッタクリで芸人が暴れたニュースが出た時期だったのもあるし何度か行ったガールズバーもコミュニケーションが取れないのに酒だけ強請られて良い会話が出来ないところが多かった。
女性と会話する経験とスキルが乏しいと感じたので行こうかとも思ったが女性と会話する場所に会話出来ない人間が単身行くのはどうにも良いことと思えなかった。
コスパと切ってしまえばそうなんだろう。
もし気の合う同じ境遇の友人がいたら一緒に突撃したかもしれない。少なくとも二人で話せば繋ぎは出来たわけだから。
一人で入っても席には通してくれるだろうし横に女性もつくだろう。しかしもうそこから何を話せば良いのか分からない。

”なんでこの店に”と聞かれても答えられない。安そうだった 、なんとなく、失礼な回答だろうか。

”なにしにこの店に”と聞かれたらきっと帰りたくなる。疑似恋愛の為、会話したかったから、プロ相手に何様だこれ。

杞憂とは分かっていても他の業種と比べるとボッタクリの存在や不明瞭な会計システムや話題や会話力の多少等が分からず足踏みしてしまうのがキャバクラだ。

経験を得たいから行きたいが経験値が高くなければ楽しめなさそう。そんなジレンマを感じる。

景気のせいか業界自体も衰退傾向で若い男性を連れて飲みに行くおっさんも減ったという。
勧める人間が居ないということが勧められる場所ではないという暗黙の意見だろう。

 

 

 

アーキテクチャってなんのこっちゃ

b.hatena.ne.jp

 ノーベル賞解説員キズナアイ問題に端を発したジェンダー論がまだまだ燃え足りないのか、あるいはミソジニストとミサンドリスト泥仕合なのか議論は尽きないようです。

そんななかで投入された意見が性的なコンテンツかどうかは制作・公開側の意図に拠る部分もある。ってものでした。

人が死ぬ事件だって殺意の有無で罪状が変わっちゃうし設計思想はコンテンツの存在意義を定義するに足るとは思う。が、それでもしゾーニングしたりしようもんなら作った意図を隠して公開しようとするコンテンツも現れるだろうし閲覧側だって制作側の意図していないところに熱い視線を注ぎそうなもの。

お宝写真とかそういうカテゴリに入っちゃうのかね。あったよね、そういうの。

 

結局はゾーニングされないビジュアルを目指して今までどおりチキンレースが続くだけじゃないのかな。

マリリン・モンローとドラゴン&カーはゾーニングエスパー魔美水戸黄門もいろいろシッチャカメッチャカになるんだろうな。

”エロさ”とはなんとも霞を掴むような人の内にしか無い是空のものですよね。

 

少子化解決のために第三子に1000万のアイデア

news.yahoo.co.jp

このアイデアって未来の年表なんかで提案されていたような。もう一度読み直してみよう。

私自身は間違った政策案では無いと思っている。
第二子まで生まれてもトントンだし第一子ってギリギリ生める家庭も多いし結構なんとかなるんじゃないかな。
第一子の減少の主な原因は産む以前の婚姻数の減少が原因ともなるのでそこまで入れたらもう別の政策になる。

そしてもしも第一子に1000万となったら、絶対悪用する人間が出ると危惧する。1000万もらって育児放棄というやり方だ。
それでなくても第一子を持つシングルマザー相手の貧困ビジネスが新しく出来るかもしれない。

第三子であれば二人生んで育てている”家族”という前提があるはずだ。(連れ子って含むのか?)

悪用されないようにするには信用が必要なわけで、”第三子まで作れた家族”は間違ってはいないのではないだろうか。

地方とリモートワークと観光業

故あって徳島の南端側まで足を伸ばした。

恐ろしいほど交通の便が悪く鬱蒼と茂る森に文明が飲み込まれていくような田舎であった。もはや衰退は避けられないような地方の一端である。

そんな”ド”のつく田舎だがこれ以上無い売りがある。海だった。

驚くなかれ徳島はサーフィン天国で、南端は日本最良にして世界第三位の波が来る海であった。サーフィンやらウェイクボードやら波乗り系世界大会も開かれているジョニーも浮かれるパラダイスだったのですよ。(誰だジョニー)

 

 

自然と地場産業しか無いどう判断しても田舎な場所は多いが、場所を気にしないリモートワークすら入ってこないのはもったいない。

たとえばキャンプ場やペンションのそばにリモートワーク用の建物をひっそりと作り、電源やPCなどを使えるようにしておけば長期休みや避暑のために使えるのではないだろうか。ハッカソンや研修などでもいい。

海岸にはWebカメラを置いて常に見ておけるようにする。スクーターなどをレンタルで使えるようにする。いろんな枝葉のサービスも必要になるだろうが田舎の使い方としては「なにもない」を売りにするのは間違っていないと思う。

しかし夏休みとかだけしか客来なさそうだし、アイデア倒れかなぁ。

タトゥーの存在意義とは

りゅうちぇるがタトゥーを入れて公表して云々という話題が面白いので思っていたことをとりとめもなく書きたい。

まずタトゥー利点といえば消えないことで簡単に消せないことだから、ロンブーの田村氏の祖父である漁師が身元確認の為で掘ったり、ごく特殊な医療情報を伝えるために掘ったりと言うのが最適な利用法だと思う。

国によっては成人の証として掘るところもあるだろうし(ワニの鱗柄だっけ)アートとしか認識されないところもあるだろう。

日本では古来から装飾として使われてたし、犯罪者の区別にも儀式的にも使われていたはず。むしろ犯罪者区別として使われた歴史はごく一部だ。

しかしマイナー文化としか思えないのは、入れる人が少ないからだろう。服を着れば見えなくなってしまうものに数万~数百万の金をかけるのはどう考えても無駄金だ。感染症の過去もあったし消すことも出来ない。ファッションならば近年はシールやボディペイント・ヘナでも出来ることはある。

入れる入れないは自由だが、入れた人に対するイメージも自由だ。

きっと日本社会はこういう共同幻想がある。

「入れ墨を入れた人は反社会的である」

古典的ヤクザ映画に限らず、アウトローの符号としてのタトゥー。
そういう幻想を補強するためにタトゥー反対派は物申すだろうし、実際にそういう幻想を利用して作品が作られ、作品によって幻想が作られる。
絵柄も自由だしストーリーにもキャラクターにも絡められてとても便利だ。

タトゥーを入れている奴がどう見ても悪いやつじゃないかってTogetterで話題になったがまさしく一例だけ取り上げて幻想の補強をしているわけだ。

りゅうちぇる氏はそんな幻想を無くしたいと言いたいんだろうが、タトゥーを入れてなくてそんな幻想と無関係な人間にそれを捨てる努力はメリットがない。漫画や映画の要素を無くすほうが惜しいとすら思う。

江戸時代では大工や漁師・火消しなんかの肌を出す仕事の人全般に入れ墨を入れる文化があったと聞いたが、そんな芸術的入れ墨のお株は、博徒から続く文化伝承の末にヤクザに継がれ、映画によってその幻想が一気に広まったのではないか。

となるとその幻想を覆すためにはタトゥーから連想されるものにヤクザ映画より先にりゅうちぇるが来るしか無い。高倉健VSりゅうちぇるだ。半端な壁ではないな。

 

おそらくこれからも長く、あるいは永遠に「タトゥーは反社会的」という幻想は消えそうにない。
そうあるように望まれているから。