ハードディスク投げ選手権

趣味と仕事とごった煮状態 いつまで続くかは未定で不明

タトゥーの存在意義とは

りゅうちぇるがタトゥーを入れて公表して云々という話題が面白いので思っていたことをとりとめもなく書きたい。

まずタトゥー利点といえば消えないことで簡単に消せないことだから、ロンブーの田村氏の祖父である漁師が身元確認の為で掘ったり、ごく特殊な医療情報を伝えるために掘ったりと言うのが最適な利用法だと思う。

国によっては成人の証として掘るところもあるだろうし(ワニの鱗柄だっけ)アートとしか認識されないところもあるだろう。

日本では古来から装飾として使われてたし、犯罪者の区別にも儀式的にも使われていたはず。むしろ犯罪者区別として使われた歴史はごく一部だ。

しかしマイナー文化としか思えないのは、入れる人が少ないからだろう。服を着れば見えなくなってしまうものに数万~数百万の金をかけるのはどう考えても無駄金だ。感染症の過去もあったし消すことも出来ない。ファッションならば近年はシールやボディペイント・ヘナでも出来ることはある。

入れる入れないは自由だが、入れた人に対するイメージも自由だ。

きっと日本社会はこういう共同幻想がある。

「入れ墨を入れた人は反社会的である」

古典的ヤクザ映画に限らず、アウトローの符号としてのタトゥー。
そういう幻想を補強するためにタトゥー反対派は物申すだろうし、実際にそういう幻想を利用して作品が作られ、作品によって幻想が作られる。
絵柄も自由だしストーリーにもキャラクターにも絡められてとても便利だ。

タトゥーを入れている奴がどう見ても悪いやつじゃないかってTogetterで話題になったがまさしく一例だけ取り上げて幻想の補強をしているわけだ。

りゅうちぇる氏はそんな幻想を無くしたいと言いたいんだろうが、タトゥーを入れてなくてそんな幻想と無関係な人間にそれを捨てる努力はメリットがない。漫画や映画の要素を無くすほうが惜しいとすら思う。

江戸時代では大工や漁師・火消しなんかの肌を出す仕事の人全般に入れ墨を入れる文化があったと聞いたが、そんな芸術的入れ墨のお株は、博徒から続く文化伝承の末にヤクザに継がれ、映画によってその幻想が一気に広まったのではないか。

となるとその幻想を覆すためにはタトゥーから連想されるものにヤクザ映画より先にりゅうちぇるが来るしか無い。高倉健VSりゅうちぇるだ。半端な壁ではないな。

 

おそらくこれからも長く、あるいは永遠に「タトゥーは反社会的」という幻想は消えそうにない。
そうあるように望まれているから。